児童労働のない未来へ-NPO 法人ACE代表 岩附由香のブログ(single-blog)

児童労働

2005年12月7日

児童労働をしていたオムくん

シンポジウムで出たオムくんへの質問の中で、答えきれなかったものについて、以下追加で聞きましたので、みなさんに共有します。カイラシュにも同じようにしたかったのですが、次の日朝早い便で帰ってしまったため、聞けませんでした。。。

Q.学校では今どのような勉強をしていますか?

政治、物理、化学、数学、英語、ヒンディー語、サンスクリット語、環境、コンピューター、体育などの科目を勉強しています。コンピューターは2台あります。でも電気が来なかったり安定していないので、使えないこともよくあります。

Q.BBAのスタッフに助けられてから、家族を会うことはできましたか?

BBAの活動家が私を見つけたら、私の両親のところへ行って児童労働がよくないということを話しました。しかし父は「児童労働はよくないことはしっているが、うちは家族の数が多く、経済的に苦しいため、子どもを学校に通わせることは不可能だ」と答えました。

それに対してBBAのスタッフは「私たちの団体にはバル・アシュラム(Bal Ashram)という施設があります。一度来て見てみてください」といいました。父親を含め4~5人がバル・アシュラムを訪れ、活動を見学した後に、私がバル・アシュラムに来ることに合意しました。これには村長も説得されました。私はこの後、バル・アシュラムで生活するようになりました。

バル・アシュラムで生活している間で村に帰ったのは、始めの6ヶ月間生活した後のディワリのお祭りの時(4日間)だけです。それから6年間、バル・アシュラムで生活した後、今年の6月からは自分の村を「子どもにやさしい村」にするために、村に戻って家族と一緒に生活しています。

<マニッシュさんからの補足>

バル・アシュラムでは、6ヶ月をひとつの区切りとしています。約100人の子どもたちが交代でここで生活し、教育や職業訓練を受け、巣立っていきます。100人の子どものうち、だいたい15~17人はバル・アシュラムに残り、活動家としての教育を受けます。オムくんもその1人で、村に帰る前はバル・アシュラムで生活しながら公立の中学校に通っていました。

Q.村に戻ったときの家族や近所の人たちの反応は?

はじめは「何で帰ってきたの?教育を終わらせてから戻ってくるんじゃなかったの?」という反応でした。でも、私が「村の子どもたちが学校に通っていないので、行けるようにしたい。そのために協力してください。」と言ったら親も近所の人も協力的になりました。

Q.お父さんの債務はどうなったの?兄弟が児童労働をしているということはないんですか?

おじいさんが村の暴動に巻き込まれて亡くなりました。その時、裁判に勝って賠償金をもらったので、借金はそのお金で返しました。私が働いていた時には、兄は学校に通っていました。妹たちはまだ幼かったので、家で遊んでいました。学校にも行っていなかったし、仕事もしていません。なぜ私だけ働かなければならないんだろうと思っていました。

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