セカチュー | 世界の子どもを児童労働から守るNGO ACE(エース)

児童労働のない未来へ-NPO 法人ACE代表 岩附由香のブログ(single-blog)

日々是発見

2005年5月27日

セカチュー

「世界中の子どもに教育を」キャンペーンのミーティングの後、打ち上げ。

で、話は昨日の「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンの話から、どうやってキャンペーンをやっていくか、という話へ。

その中で、キャンペーンで訴えたいこと、たとえば「まずしさ」とか「教育を受けられない子どもたちがいる」ということについて、「どう共感できるか」「誰が共感できるか」という話になりました。

その延長で、日本の子どもの話に。

 

私が以前、インドの働く子どもと日本の子どもの交流プログラムに関わったとき、普通に学校に行っている子どもよりも、不登校をしている子どもたちのほうがインドの働く子どもたちに共感しやすかったみたい、ということをいいました。

不登校をする子どもたちは「自分は学校に行かない」ということを選んで、決めて、しかも反対する親や学校の先生やまわりを納得させなければいけないわけです。そのようなプロセスを経て、自分の考えたことを主張し、それを実行することをやっているわけです。働く子どもたち(日本に来た子どもたち)も、自分の考えを主張し、子どものグループを作って活動している。そういう意味で、自分の権利などについても考える機会があったのだと思います。

それに加えて、日本の子どもたちは、小学校の頃から「与えられたもの」の中で生きることがあたり前で、「自分で主張して変えることができる」という経験がありません。はじめから「それは変えられない」とあきらめているところが多いような気がするのです。変えた経験がないから、おとなになっても自分がゆっても変わらないと、政治に関心をもてないところにもつながっているのじゃないかと思います。

日本の前提として「みんな同じ」ということを私も強く感じました。アメリカで生活していたときは、「みんなが違う」のがあたりまえだから、その中でぶつかって、話し合ったり、ルールをつくったりしていくことで、自分の環境を自分で変えることというのが自然と身につきやすい環境にあるのではないかと思います。その一方、日本は「同じ」であるという暗黙の了解があるので、そういうきっかけが訪れにくい。でも「違うんだ」と思ったり感じた子たちは、「出る杭は打たれる」式にいじめにあったり、浮いてしまったりして、本当に、そういう意味で自由が少ない、生きにくいだろうなと思うのです。

今日は酔った勢いで、すごーく長く書いてしまいました。

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